
目隠しと猿ぐつわをはめられ、まるで荷物のように扱われるのだと覚悟していたが、小舟を降りる時も、馬に乗る時も、存外、あの長髪の男は丁寧だった。馬の二人乗りは初めてだったが、私を前に乗せると背中から抱きかかえるようにして支えながら手綱を巧みに操る。目隠しのせいで見えていない私のために、右だ、左だ、少し飛ぶぞと悪路を言って聞かせる。振動に身構えると、もたれかかると良いと言うが早いか、その大きな手で肩のあたりを引き寄せられた。確かに安定する。それは彼が外国人さん並みの恵まれた体躯を持っているが故だろう。
思い出せば、彼はよく着こんだ麻のシャツにズボン吊りは妙に様になっていた。ちゃんと採寸して体形に合った洋服を着ていた婚約者でさえ、どこか着られている感があった。やはり、欧州で生まれた服は欧州の骨格を当ててこそなのかもしれない。コルセットできつく締めあげている自分の腹周りが悲しくなる。
気遣うような物言いをされるほど、雑多な思考が生まれて逃避が始まった。しかし、大きく馬が跳ねた時、腰のあたりに鉄の塊がぶつかった気がして、男がズボンの腹に拳銃を仕舞っているという現実を突きつける。拐かされた。いつ殺されてもおかしくない。恐怖は心臓を見事に包みこんでいく。「そのドレスも高く売れるだろうなあ」という呟きによって、壊れやすい人形だから優しくされていただけだと思い知った。
辿り着いたのは放置された屋敷のような、小屋のようなところだった。目隠しと猿ぐつわを外されたけれど、かび臭さに鼻を覆い、思わず目を細める。あたりは少しの夕日を残して夜の帳が降りており、ひとまず屋根はあり、建具のあちこちは壊れているが、雨は凌げるだろうと自分に言い聞かせる。風はわからない。夏とはいえ、北海道の夜は冷え込む。
私の手を引きながら、男は藁沓をさっと脱いで座敷へと上がるものだから、私は編み上げブーツのまま着いていくしかなかった。どうせ囲炉裏のあるこの座敷も埃と煤で汚れており、いまさら私が土足のまま上がったところで変わりがないように見えた。ドレスで足元が見えないこともあり、男は気付かないだろう。
円座があるだけでも驚きではあったが、男は一番ほつれの少なそうなものを見つけると埃をはたいてから寄越すので、私は目を見張った。
「まあ、座んなよ……えーと、さんだっけ?」
男はもう板敷の床でくつろいでいる。私がゆっくりとスカートの裾をさばいて座ると、質問を肯定したととらえたのか、男は「ちゃん、腹減ってない?」と囲炉裏に掛かっていた鍋の中身を検分しだす。
彼の仲間たちが途中でどこかへ行ったことは、会話のやりとりと馬の足音が減ったことから分かっていたが、賊の人数が減ったところで、首魁らしき男と二人きりの状況の中、空腹を感じるほど図太い神経は持ち合わせていない。強いて言えばのどが渇いた。悲鳴を上げ続けたわけではないと言うのに。感情がそちらに揺れるだけで、身体もすり潰されるのかもしれない。鍋は結局、空だったらしく「他の奴らが帰ってきたら夕飯にしよう」と言い、明りのために囲炉裏の火をくべた。
実家を調べられるでもない。脅されるでもない。時間だけがが過ぎゆく。
所在なく膝に乗せた自分の指先を見つめる。もはや、恐怖に震える気力も残っていない。今なら難なく首飾りを外すことができるだろう。思い立ってみれば、本当に、簡単に、それは外すことができた。薄暗い部屋の中であってもエメラルドは輝きを誇っていた。その緑色の美しかったこと。あの時に賊に渡すことができれば、今、自分がこんな所にいることなんてなかっただろう。恨めしさがふつふつと沸き起こる。ただ、その後悔に捕らわれると、そもそも舟遊びになんて行かなければよかったのだということになる。身内の不幸さえあればと断れたものを。しかし不幸は、今、私を襲っているのだ。男は「ああ、首飾りのことを忘れていた」と言う。忘れられるような、そんな価値しかないのかもしれない。
私の手から首飾りを回収すると、そのまま男は横に座り込む。私の首筋から、背中から、舐めるように見つめているようだった。私の目線は相変わらずに、自分の指先にある。手袋のレースの編み目自身を凝視していたのだが、彼のふいの言葉に顔を上げた。
「これ、脱いで?」
「えっ……?」
唐突な言葉の意味が分からないでいると、彼はドレスの裾を少し引っ張った。
「身代金の受け渡しは明日やる。もう銀行が閉まっていて充分な金が引き出せないからだ。あんたのうちと、あのボンボンのとこには警察に知らせるなと脅しをしてるけど、騒ぎになる前にドレスは売っぱらっちまった方が足が付かない。まあ、持ち込むにも店が閉まってるだろうから朝イチだ。でも、これ、こんなにボタンがあるんじゃあ、明日起きてすぐに脱げないだろう? お手伝いもいないし」
だから今のうちだと主張する。道理は分かった。それは犯罪者としては正しかった。けれど、すぐに承服しないのは、私ののどが潰れているだけではなく、拐された身ではあるが、令嬢としてのわずかながらの自尊心が残っている。それが声色に滲んだかは甚だ怪しいとはいえ。
「ここで……?」
「ほかに部屋なんてないよ。逃げられたら困るし」
「つ、衝立は……」
「あるように見える?」
見えない。
分かりきっている。
「こんな真っ暗な夜に……ここがどこかも分かりません、女の脚では逃げられません、だから、あの……」
「俺に出てけって? 人質に勝手に死なれても困るしねぇ」
胡坐を掻き、頬杖を突き、彼はニヤニヤとしたが、目が笑っていない。自分に勝ち目のない言い合いであることも分かりきっている。私は人形でしかないのだとも分かっている。それでも懇願せざるを得ない。
「せめて……せめて肩に掛ける物を貸してください」
すると彼は座敷の隅の、布団らしきものが積まれた中から一着の浴衣を取り出すと、ばんばんと乱暴に埃を払ってから私の肩へと打ち掛けた。少しほっとするのもつかの間、彼は円座に座る私のスカートをめくり上げた。
「ちょっと、なにをするんです!」
「あ、やっぱり、襦袢じゃないよね。じゃあ、珍しいから下着一式もだ」
そう言って、今度は帯を私の足元へと放る。代わりにこの浴衣を着ていろということなのだろう。振り落ちてきた絶望に下唇噛み、必死に嗚咽を我慢したところで、すぐに着替えられるものではなかった。悲しみと怒りによって、体中が縛られているようだった。なんて非道。なんて非道!
先ほどスカートをめくった時に見えたのだろう、男は「靴も脱いでなかったか~」と無遠慮に私の脚を触る。ジタバタともがいて嫌だ嫌だと叫ぶのもお構いなしに、器用に靴ひもを緩めながら先ほどと変わらぬ口調で囁く。
「だいたいさあ、今更でしょ。年頃の娘が男に攫われた、これはどうしようもない火さ。ちゃんが何もなかった、無事だと主張したところで煙が立たないわけがない。脚を触られた、肌を見られた、それ以上のことがあったに違いないと、世間は『そう』いう目で見る。そうに決まっている。ちゃんが守れるものなんて、もうない。諦めな」
そして、男は私の両足からブーツを引き抜くと、先ほど暴れた際に落ちた浴衣を肩に掛けなおした。私が恐怖の底で見つけたと思っていた矜持は、すでに砕かれたものでしかなかった。それをありありと見せつけられる。失意で塗り固められ、私はまた、抵抗はおろか、指一本動かせなくなってしまった。まるで陶器で作られた人形かのように。
待てども待てども着替え始めないものだから、男は溜息をつくとドレスのボタンをひとつに指を掛ける。
圧倒的な屈辱だった。
でも諦めるしかないことだった。