
舟遊びに誘われたのは夏の終わり、ちょうど英国のドレス一式を新調したころで、誰かに見せびらかしたい一心で、しかし、楚々に「喜んで」とお返事はしたが、そもそも相手は親の決めた婚約者であったので、身内の不幸以外に断る方法はありはしなかった。
今となっては主人だが、当時からこの許嫁のことは嫌いではなかった。その日も私の洋装好きに合わせてくれたのだろう、着慣れないながらにハイカラーのシャツにネクタイ、ひと目で仕立てが良いと分かるスーツを着こんで迎えに来るところや、私のドレスのレースがいかに繊細であるか、生成り色のシルクがいかになめらかであるか、ドレスに合わせる日傘や手袋そして首飾りがいかに調和しているか、その妙を讃えてくれるところなど、私の心をじゅうぶんに満たす。私の着道楽を約束してくれる人である。それだけの服飾への理解と財力がある。祝言は三カ月後だった。
舟はすべるように進んでいく。東京のほうで流行っていると言う立派な屋形船よりは小さいが、私たちとそれぞれの侍従が乗り込むにはちょうど良い大きさで、屋根があるので川の上にある東屋のようだった。
眺めるみなもは美しく、遠くは鏡面のように川岸の木々の緑を絵画のように写し取り、近くは舳先にぶつかって生まれた波うちが賑やかだ。そよぐ風は冷たさと速さを含んでいて、川面から照り返す夏の日差しを紛らわし、きちんと撫でつけたはずの前髪に自由を与える。
一瞬ごとに違う青色が重なり合う様子を熱心に眺めていると、落ちてはいけないよとそっと手を差し出される。少し躊躇ってから私もそっと手を重ねた。日が暮れてしまえば水は凍えるようだろうと、夕涼みではなく真昼間から繰り出したのだが、それは正しかったと思わされる。落ちたらひとたまりもないだろう。そんな恐怖を煽るように、ひんやりとした空気が気管と肺を驚かせる。私はそんな一瞬の不穏を誤魔化すように、あたりを眺めた。
「ほら、ご覧になって。あの小舟はなにをしているのかしらね」
「ああ、本当だ。僕らのような舟遊びではないようだ。魚でもいるのだろうか」
指差す先の二艘の舟は少し距離があり、逆光で見え辛くはあったものの二人と三人で男たちが乗っているのが見てとれる。その中の一人はその長い髪が靡くのも気にせず遊覧を楽しんでいるかのようで、ふと片手を振るものだから、私たちもなんとなしに手を振り返した。穏やかな光景だっただろう。連れてきた侍従たちもそうだったし、慣れた船頭たちでさえそうだった。
しかし、その小舟はざぶざぶと川面を引き裂くような速さで漕ぎだしたかと思えば、あっという間に私たちの舟に近づいてきた。一艘は行く手を、一艘は側面に寄せて、私たちに銃を突きつける。体温を川底に落としてきたのではないかと思うくらい、冷えた心地に支配された。あまりの恐れに体に力が入らず、繋いでいたはずの手もだらりとする。隣からひぃ……とおびえた音が聞こえた。
銃を突き付けながらも長髪の男はどこか悠然としており、「金目の物を出してくれたら許すよ」と言う。省略された言葉を問うまでもなく、命が賊たちに握られていることは明白であった。
私も婚約者も裕福な家柄の子であったので、普段であればこんな有事に備えて腕に覚えのある者を連れているのだが、今回ばかりは泳ぎ達者しか侍らせていない。仕方ない、その時に想像できた一番の有事は水難だったのだ。とはいえ、この賊たちはあまりの手練れで、どちらにせよ同じ結果だっただろう。
怖い!
怖い、怖い、怖い!!!!
長髪の男は私たちの舟へと身軽に押し入った。見上げるほどの背が高さも恐怖だ。彼は床板にへたり込んでいた婚約者の首元を掴んで起こすと、無造作にジャケットのポケットを漁る。目当てのものを見つけると、ぞんざいに小舟の上の仲間へを放り投げた。ひぃひぃという喚きと、「旦那!」と心配する声が侍従たちから上がる。男はやはり、ぞんざいに婚約者を床へと転がした。
そして私の方へと一歩近づく。まるで体が凍ったかのようで後ずさりもできずにいると、船尾側にいた侍女が泣きながら私の名を呼び、お嬢様には手を出すなと甲高い声で叫ぶ。別の男が煩わしそうに侍女の頭を拳銃で殴り、彼女の悲鳴と同時に私は泣き出した。
「へえ~お嬢さん、っていうの? そう。ほら、さんはそれだよ」
彼はそう言いながら私の胸元を指差す。それから大きな掌を広げ、差し出せと命じる。私は震えて言うことを聞かない指で首飾りに触れた。従わなければ先ほどのように毟られるだけだと分かりきっている。それどころか、いつ発砲されるかもわからない。目の前にいる長髪の男の銃口は下を向いていたけれど、別の男の銃は確かに侍女の頭に添えられていた。おばあ様から譲り受けた首飾りは見事な彫金と大粒のエメラルドで、たいそう高価で、一等気に入っていたけれど、私の行動ひとつで侍女の頭が吹き飛ぶことと、比べようがない。
手を後ろに回し、首飾りの金具を外そうとするが思うようにいかない。がちがちと歯が鳴る。身支度を侍女に任せてばかりいたせいもある。指先が震える。苛立つような舌打ちと、「やっぱり汽船の方がよかったか?」「これは金持ちの舟に違いないって言ったのは海賊さんですよ」という会話が聞こえた。
早く首飾りを外さなければと焦るほどに、首飾りは開かずの扉の如く。ついには「あーあ」という溜め息が目の前の男から漏れた。私は時間切れなのだと悟った。侍女の悲鳴がまた一つ、上がった。しかし、銃声は響かず、代わりとばかりに私の腰に腕が回り込み、ひょいと体を抱え上げられる。本能的な抵抗も上背のある男に叶うはずもない。
彼は人ひとりを楽々と抱えたまま、少し助走をつけると舟のへりを蹴って小舟へと飛び移る。すぐに小舟は漕ぎ出された。
「やめた。物取りだけじゃ割に合わない。身代金を用意して待ってろって、お嬢ちゃんトコの親父に言っておきな!!」
誘拐されたと気づいた時には、元いた舟は遠くぼやけ、水墨画のようになっていた。