summer dress





02


「なあ、これって、うちの車?」
 車体を指差すと、彼女はご機嫌そうな顔をする。
「そう。貸してもらっちゃった。こんなに可愛い車、運転できてラッキー」
 が当たり前のように助手席側のドアを開けるので、ハイネも隣に乗り込むことにした。後部座席にボストンバックを投げ入れると、彼女は「お土産が潰れちゃう」と唇をとがらせる。潰れるような、彼女が期待するお菓子のような、そういったお土産は入っていないので心配はいらない。
「ハイネ、そういうのを買うのも、あげるのも、好きだと思ってた。意外」
「……が迎えに来るなら用意したっつーの。でも、どうして急に? あの人、来る気満々だっただろ」
「ん~……」
 彼女は悩むような音だけ発すると、車を出した。
 運転のために再度サングラスをかけたの横顔越しに、薄茶に溶ける建造物群と、サイダーのパッケージのように爽やかな青色の空を見送る。ドアに肘をつき、だらしなくシートにもたれたハイネの体勢と目線は無遠慮だったが、は「なあに?」と口にはしたものの、文句があるわけではないようで、それは幼馴染ゆえの気の置けなさに由来した。
 彼女の唇にはサングラスとワンピースの迫力に負けないような、濃い色の口紅が引かれている。それから耳たぶには、ゴールドの台座の上にライトグリーンのビジューが輝いていて、ふと見えた耳たぶの裏のキャッチに、あぁ、いつの間にピアスホールを開けたのだろうと記憶を辿る。
 昔はイヤリングだったはずなのに。いつのまにか落としてしまって、お気に入りだったのに、悲しかった、そんなような話をしたのは自分がザフトのアカデミーに入学する前だ。彼女の悲しみを映しだす耳たぶが、やわらかそうで、妙に好きだと思った。気軽に触れていいような場所ではない。いつか、と思うほど焦がれていたわけでもない。ただ、触れることを許されるのならば、それは幸運と呼べる気がしていたので、そこに小さなが穴が開いたという事実は、些末事でありながら、少し、そわそわとさせるものがあった。
 オープンカーは、風がよく通って身体の熱を剥がし、太陽光線が肌がじわりじわりと焼く。感覚で言えば、後者の不快感の方が強い。でも、暑いな、なんて事実と不満は、隣に座る彼女のバカンス風の装いの前では、季節を彩る装飾語になる。やわらかそうな黒い生地が、首元やウェストできゅっと絞られ、膝下でゆるやかに広がり、大きく切り取られた肩のラインが、夏らしく、そして美しい。その豪奢さはサマードレスに区分されるものだろう。それだけに、ハイネは自分のただのTシャツが、恐ろしくつまらないものに見えてくる。半袖のコットン風のTシャツも、リネン風のボトムスも、生地感でいえば、かつての自然派が愛した夏向きの素材を模しているが、いまいち、彼女の隣に座るには物足りない。
「そのワンピースさ」
「なあに?」
 彼女はちょっとだけ目線をくれたが、すぐに前を向いたので、ハイネはまっすぐ前を向くように座り直した。
 エアカーは十字路を右に曲がり、大きな滑り台のある公園と、やたらと割引券をくれる薬局を通り過ぎた。走行音で台詞が掻き消されることを避けるかのように、彼は少しだけ声を張り、言葉を短く切る。
の」
「うん」
「そのワンピース」
「うん」
「似合ってる」
「でしょう?」
 自信満々といった感じに笑う彼女の耳元で、イヤリングが揺れて光った。それだけだというのに、ハイネはひどく不安定な気分になる。上昇と下降が、自分のハンドル操作と関係なく無慈悲に襲ってくる感覚。せめて、と何かに縋ろうとしたが、思いつくものは結局、彼女しかいないのだ。
 センスの良さを重ねて褒めれば、彼女は声を楽し気に弾ませる。
「おば様の昔の服を貰っちゃった。サングラスも」 
「なんだ、やっぱり、あの人の服なのか。リバイバルでもしたのかと思った」
 口にしてから、母親の昔の服を覚えているだなんて、マザコンっぽく聞こえてしまっただろうかと後悔したが、は「おば様って、いつも見ても素敵~」とうっとりとしている。同意を求められているようではなかったので、ハイネは特にコメントしないことにした。そういえば昔から、母とは仲が良かった。



 マンションのひとつ手前の信号でつかまると、はサングラスを外しながら、「ねえ、ハイネ」と呼びかけた。そのわりに、「なに?」と催促すれば言い淀む。逡巡ののちに出た「実は……」という前置きは、ハイネを不安にさせた。告げられる正体は、針で刺すかように小さな穴をあけるかもしれない。エアカーの発進とともに、彼女は誰かに聞かれることを咎めるかのように声を潜めた。
「……おば様なんだけど」
「えっ、母さんが?」
 ハイネが拍子抜けしていると、彼女はハンドルを握る手に力を籠めたようだった。その仕草がいやに真剣で、それはそれで心構えをさせられるものがある。言葉の調子だけはやけに明るく、彼女は言葉を続けた。
「おば様、最愛の息子が帰って来るんだーって思ったら、感極まってしまったらしくて。たまたま駐車場に行ったら、運転席で号泣してるおば様を見つけて、もう、ビックリ」
 深刻に返答するには少し場違いな雰囲気に、ハイネもちょっと茶化すように言うしかなかった。
「……それで、が代わりに来たってか?」
「お礼も頂きまして。まあ、それでお迎えに遅れたんだけど」
 彼女は自分のワンピースを指差す。
 ハイネは両手で顔を覆うと、小さく「サイアク……」と呟いた。それは親しさゆえの悪口で、それは最高にも似ている。
 母に泣かれたことが申し訳なかった。覚悟をさせているものではあるが、死を持ち帰るようなものなら、どれだけ悲しませるだろう。鞄の底にある品々が途端に湿度を増していく。それから、純粋に嬉しくて、嬉しかったから尚のこと、気恥ずかしさが体中を巡る。
 降参とばかりに、シートのヘッドマットに頭を預けながら、指の隙間から空を見上げる。夏らしい人工青雲と夏らしい人口太陽が覗く。少しするとにマンションの地下駐車場の薄暗さへと代わってしまったが、隣から「おば様って、素敵よね」と言う声がするものだから、まだ空の青さが透けるようだった。



 駐車を終えところで、はたと気が付くことがある。ハイネがシートベルトを外す手を思わず止めると、彼女もつられて動きを止めた。
「あれ、親父は?」
「残念ながら急な出張。明日には帰るって」
「残念じゃねぇけど。は? 仕事、土日休みだったろ?」
「ん~……ふふふ。有給休暇」
 そもそも、彼女はたまたま駐車場で母に遭遇したと言う。もし出掛けるところであったのならば、邪魔をしてしまった。「悪かった、どっか行くの?」とハイネが問うと、こちらを向いた彼女は意味ありげで、そして、いやに楽しそうだった。耳元も口元も、目線を合わせるには相応しくない気がして、そうすると、彼女の瞳を見つめるしかなくなる。
「駅前のドーナツ屋、とか?」
「疑問系じゃん」
「まあ、ドーナツだろうとカステラだろうと、そこは問題じゃないってこと。今日、帰ってくるって聞いたから、運よく会えたらいいなあって」
 屋内だからと油断していたところに、陽が差すような驚きがあった。夏らしい熱と華やかさを持っていて、そこへ行きたいと思わせるものがあった。求めていた幸運が鮮やかに、そこにある。
 わざわざ? 俺に? 
 同じマンションなんだ、仕事帰りでも寄れる距離なのに?
 それらを確認するほど野暮ではない。必要なのは別の言葉だ。
「明日は?」
「仕事」
「じゃあ、明後日」
「カレンダー通りにお休み」
 彼女がちょっと目を細め、睫毛が揺れた。期待を感じずにはいられない。それだけで、心地の良い浮遊感で満たされる。ハイネは断言するように、短い誘い文句を口にした。
「会おう」