小瓶を割る



「はあ、転属ですか。ミネルバに。ハイネの推薦で。左様ですか」

ふうん。はいつもの少し間延びした調子で返事をした。喜ぶでもない、悲しむでもない。ただ、事実を棒読みで繰り返すので、ハイネはこの打診の行方が全く読めなかった。
地球軍によるアーモリーワンでのMS奪取、そして開戦。その戦火の、まさに中心にいると言ってもいいミネルバ。 向こうは急な開戦にノイローゼとなった新人看護師を、今回のディオキアで下船させるとのことをハイネは又聞きしていた。医療免許を持っている人間となると、補充がなかなか見つからないらしい、特に地球での基地となれば。しかし、ハイネのようにわざわざ宙から呼ぶほどでもない……というのがあるのだろう。だから、自分が異動するまでに見つからなければ、という軽い気持ちで同じ艦に勤めるに提案してみた。だから、軽く断ってくれても構わない。
彼女はこの艦では軍医として所属し、軍医として、もちろん看護師としても優秀であり、何某と違って先の大戦にも関わっていたであれば心配はない。ただ、それはあくまで業績の話だ。この、なんとも楽天的というか、間抜けというか、そんな印象を持たせてしまう彼女だ。軍属であるという仕事柄、真面目な人間が多く、彼女の真摯さを感じさせない態度は、今まで何度か諍いの種になったことがある。種は発芽したことはないので、報告書に載るようなことは一切ない。
(決して不真面目ではないし、仕事にひたむきなのだけど、分かりづらいんだよな、は)
ハイネの評を否定する人間は少ないだろう。ハイネがそう言うのだから、否定しないとも言う。ふたりとも優秀であるのは同じだが、人好きのするかどうかで言えば、天と地ほどの差がある。ハイネは誰とでもコップ片手に世間話をするような社交性を持っていたけれど、はひとりでグラスの中の氷が溶ける様子をずっと見ているような人だった。それでも、ハイネが「なにしてんの?」と声をかければ「これはですねぇ」と彼女は必ず応えてくれる。コミュニケーションが断絶しているわけではない、へったくそなのだ、というのが彼の下した結論だ。
ハイネがミネルバに転属した後、彼女が孤立するわけではない。彼女の直属の上司にあたる軍医とても理解のある人で、医療チームはみんなそうだった。メカニックとパイロットは、一番、医務室にお世話になるというのに、残念ながら彼女を苦手視していた人間が多い。少しだけ心配になる。
しかし、心配だから彼女をミネルバに連れて行きたいわけではなかった。彼女の能力を買っている。最前線にいるミネルバの方が今より適役だというのに尽きる。なにより、戦場でも精神が安定している様子は、新人の多いミネルバでは必要な存在だろう……その安定が間抜けだと言われがちではあるが。それにこの艦はこのあとはまた宇宙の軍本部へ戻る。が抜けた分はそちらで人員確保をすればいい。

「どう?」とハイネは答えを急かしてみる。は瞼を閉じて、何かを天秤にかけて悩んでいるようだった。少しだけ、メトロノームのように頭が左右に揺れる。
フェイスであるハイネに、軍医の配属の権限がないわけではない。それこそ、それなりの理由が必要ではあるが、彼女に命令できないわけではない。軍支給品より持ち込みのお気に入りの紅茶の方が好き。それくらいの生活水準を少しだけあげるような理由しかない。いくらでも諦めがきく。だから、最初に艦長や医務室のトップに話を持ち掛けず、本人に打診したのだ。
?」
名前を呼ぶと、彼女はゆっくりと瞼を開く。頭は向かって右に傾いだまま、ぼそっと呟く。
「ハイネが……」
「俺が?」
「そうですね、ハイネが私物の紅茶を淹れるとき、私もお相伴にあずかれるのであれば、転属もやぶさかではないです」
「茶葉のメーカー教えたし、お前も淹れるの上手いはずだけど」
「女子は私物が多いんですよお、持ち込み規定量との闘いはグラム単位。でも嗜好品も楽しみたぁい」
そう言いながら、は頭を正面に戻す。覚悟を決めたというにはいささか不似合いな語調。実際、まだ推薦であって、転属が決定したわけではないし、これから艦長もろもろに相談する必要があるので、これくらいが丁度いいのかもしれない。

しかし、案外、の転属で話がとんとん拍子で進んでしまい、ハイネは人事部から感謝されることになる。
正式な通達が言い渡されたとき、は慣れた艦を離れ、第一線に行かねばならないことに対する不安とか、もしくは、必ず役立って見せますという向上心を見せることはなかった。「荷造りしなきゃですねえ」と、今日はいい天気ですねえと、変わらない調子で答えるのだ。
















ディオキアのこの港で、は慣れ親しんだ古巣であるナスカ級をじっと見つめ、考え事をしていた。それは、お別れのキスと言うのは無機物にもすべきか否かというもだった。ひとりで実行しようものなら、事情を知らない人に痛い目で見られるかもしれない。道連れがいるのであれば、映画じみた冗談で遊んでいるのだろうと思ってくれるだろう。そういうことを考える。大抵の場合、そうやって感情をどう示すかを考えているうちにタイミングを逃してしまったり、選択を間違ってしまったりしているらしく、人を不快にさせてしまうことがあることを、は知っていた。だからだろう、転属が決まってから上司に『言動には気を付けたほうがいい』と再三言われたことを思い出す。戦艦にはこっそりウィンクをひとつ投げると、彼女は重たいスーツケースを引きずる。
『ハイネにばかり頼ってはいけない』とも言われた。すでに裏取引的にハイネの荷物に自分の分の紅茶がはいっている件ではないと分かっている。何をと問いただすほど愚かではない。ただ、ハイネには『誘ったのは俺だから、何かあったら頼れよな』とすでに声をかけてもらっているので、本人としては諸手を挙げて頼る気満々なんだけどなあと、口をとがらせる。
そんな彼は今、搭乗デッキ近くで最後の最後までほかのクルーに別れを惜しまれていた。オレンジショルダーのハイネ隊の面々は当然だろう、それから頼りにしていた艦長たち、管制官やメカニックとも仲が良かった。それから……と指折るよりも、艦全体と言った方が早い。ハイネを慕っていたのは自身も同じだった。
まだ終わらないだろうと予想して、は小型モニターを立ち上げ、何度も目を通したミネルバの資料を呼び起こす。実物の到着は明日の予定だと聞く。データ上の新型艦は、旧型に比べるとデザインが洗練され彼女好みだった。目を瞑って、それが空を飛ぶ姿を思い描く。うっとりとした調子で「かっこいいなあ」とが呟くのと、ハイネがやって来たのは同じのタイミングだった。先のセリフはばっちり聞こえていたらしく、ハイネはの手元をのぞき込んで称賛の対象を確認すると、ちょっと笑う。
「子どもみたいな感想だな、……」
戦艦を見慣れてないわけじゃないだろう。その口ぶりは決して呆れたような言い方ではなく、どうやらおもしろがっているようだ。
「かっこいい、かっこよくないで勝ち負けが決まるなら、絶対、勝つと思うんです、ミネルバ」
ハイネのために新しいオレンジのグフが来た時も、は本当にかっこいいと思ったし、ミネルバもそうだった。それは戦闘力の話ではなく、あくまで外見の話であっって、ぬいぐるみを見たら抱きつかずにはいられないような、そういう類の話なのだ。
「そういうセンスとか、クールさで決まるんだったらいいよなあ、ホント」
「じゃあ、ハイネがいればプラントは圧勝かも」
「それはどうも」
彼はまるで褒め言葉へのお礼とばかりに笑って見せるので、は負けたなあと思う。心臓が止まるってこういうことだと理解するけれど、言動に気を付けろと言われているので口にすることはやめた。ハイネがいつも通りだったので、きっと顔には出ていないのだろうと彼女は判断した。