ファンタジア




01


 の住むマンションから通っていた幼稚園へは、細く狭い川を渡る必要がある。周りは住宅街だというのに、そこだけ途端に森に迷い込んだかのような佇まいで、用水路のような生活感はなく、両脇に植えられた樹木が木陰を作り、河原というにはささやかだが平坦に小石が敷き詰められ、せせらぐ音も爽やかで、しかも、それに架かる石橋は年季の入った苔が生しているものだから、通り過ぎる瞬間を気に入っていたことをは覚えているし、今もまあ、なんとなく好きだ、という部類だ。
 ただ、その感想はが自転車のチャイルドシートに乗っているからであって、ペダルを漕ぐ彼女の母は、川を越えた先に始まる緩やかで長い坂道にうんざりしていた。帰り道はらくちんだだったとしても。
 幼稚園と小学校と、それから大きな公園と小さな児童図書館は川向こうだったけれど、中学生から氷帝に通うため電車通学となると、駅は反対側なのでが橋を渡ることはとても少なくなった。幼稚園からの幼馴染である萩之介の家に行く時くらいしか用がない。
 この川と坂道を越えると、うんと地価が上がるんだということを聞いたことがある。下世話な話ではあるが、萩之介の家にお邪魔する度に「そりゃあ、高いでしょうよ」という気持ちになる。建売のマンション住まいの家とは違う。土地の広さと建物自体の佇まいもさることながら、なにより暮らしている人間だ。幼稚園のころまでは彼の祖父母も一緒に住んでいて、ふたりとも和装を常としていたこともあるが、は子どもながらに気品だとか、厳格だとか、そういうものを感じていた。
 なにより、お花のおうちだ。
 このお花のおうちという名称は、まだ華道という芸術と家元という職業を理解していなかった幼いころにが勝手に呼んでいたものだ。では、今もきちんと理解できているか、と問われると口を噤んでしまうが、例えば、食べ終わったプリンのプラスチック容器にハルジョオン(ヒメジオンかもしれない、にはそのふたつの区別がつかなかった)をつめこんだり、カタバミを大きい順に並べてみたり、シロツメグサで上手に指輪を作れなくて打ち捨てるのとは違うのだと言うことは明白で、この遊びたちをはいたく気に入っていたけれど、萩之介の前では絶対にやらなかった。
 いたずらに手折るだけの、思慮の足りていない、怠惰で、恥ずべき行為である気がしてならなかった、とが懐古の上でそう感じているという話で、当時の彼女がどれだけ言語化し、明確化し、己への投石としていたかは最早わからない。

 昔の話であると言い切ることは難しい。十四年の人生の中のたった十年前の話であるし、は幼稚園時代の記憶が鮮明に残っているほうで、まるで昨日のことのように思い出せるからだ。 幼稚園で飼っていたウサギの名前も、かくれんぼで最後まで見つからなかった時の高揚感も、友達のワンピースを羨んだことも、あの川を過ぎ行く光景も。
 そして、時折、その記憶の端に萩之介が映り、消えゆくが、今現在のという人間の日常においても、彼の姿は映り、消え、また映った。





 春休みの平日、朝の七時にが起きていたのは、朝の情報番組に贔屓のアイドルが出るからだった。新曲の告知である。両親がすでに出かけていることをいいことに、パン屑が落ちるのも気にせずトーストを片手にテレビの真ん前にスタンバイする。録画もしてある。
 たった三分の出番に歓声を上げ、拍手をしたところで、見計らったかのように玄関のチャイムが鳴った。インターホンのモニターが映し出す人影が萩之介でなければ、は居留守を使うつもりだった。が一人の時は来客に応じないという防犯の観点もあるが、今しがた録画した映像から三分を抜き出さなければならない。一度、後回しにすると一向にやらなくなってしまう。レコーダーはが追っかけているアイドルと、彼女の母が溜めているBS放送の洋画のせいで、常に容量がひっ迫してる。

「はぁい」
『朝早くから失礼します、滝ですけど……ちゃん?』
「そうでーす」
『渡したいものがあるけど、いい?』
「まだパジャマなので駄目です。なんで萩之介くんは制服?」
『これから委員会と部活』
「着替えるので待たれよ」
 
 萩之介から差し出されたのは茶紙にくるまれた桜の枝だった。といっても、二十センチほどの細い枝が二本、咲いた花弁と少しの葉。萩之介はありふれた透明のレジ袋にいれて持ってきた。彼の家の園庭に、立派で時代を感じる桜が植わっているのは知っているので、こんなに気軽な姿で我が家にやって来ようとは。不思議な気持ちにさせられる。
「明日は雨だっていうから散る前に、ね? お裾分け」
「嬉しい……けど、うちには飾るにちょうどいい花瓶が無い」
 それはいつかにも聞いたなあ、と彼は思い出すように斜め上に視線をやる。ごめんと謝るのも違う気がして、は押し黙った。前回は、逆さに吊ったらドライフラワーになるよと教えてもらったままにした。だから結局、花瓶があると便利だと思って通販サイトの一つや二つは閲覧したものの、見ただけで満足してしまい購入に至らなかった。次があるかも分からないのに、彼から花を貰うかもしれない、と備えるのは、なかなかどうして難しい。期待して、正座して待つのはおかしな話だ。でも、いざその事案に直面して、対応策をしっているのに何も出来ないというのも、羞恥の芽が伸びる話だ。
 家にはアイドルや俳優の華やかなポスターを飾ることはあっても、花を買って活ける習慣が無い。学校の教材として朝顔を育てていた時期も過ぎれば、ガーデニングの趣味もない。
 植物がが嫌いなわけではない、ただ、どこか、海を越えた国の文化のように、なじみがない。経験がない。だから、どうしよう。ぽつりとが呟くと、萩之介は静かに笑った。
「うちは妹がジャムの空き瓶に適当に活けてたよ」
「それで、いいの?」
「いいんじゃない? ちゃんがそれでいいなら、だけど。でも、そうだな……夕方でよければお道具と花器を持ってお邪魔しようか」
「大丈夫! ジャムの瓶に挿すから」
 が枝の入った袋をゆっくりと握りしめるのを確認して、萩之介はじゃあ、またねと去っていった。