
この艦において管制官を務める彼女、・といえば、炊事兵の次に献立を把握している人間であるといっていい。そして、顔を合わせた皆々に対して、まるで挨拶かのように、当然のものかのように、献立を教えてまわるものだから、大抵のクルーは彼女に対して『食への興味が強い人』もしくは『食いしん坊』と印象を持っており、ハイネ自身もその例に漏れなかった。
「おはよう、ハイネ。ねえ、今日の昼はピラフだって」
「今日の戦闘はしどかったね。ところで、明日の夜は麻婆茄子らしいよ、しかも、杏仁豆腐がデザートにつく」
「朝にエッグベネディクトが用意されいて、こんなに嬉しい日はない。まあ、私は夜勤明けなので、もう一日が終わるんだけど」
以下略。
例えば、彼女以外のほかのクルーから今日のメニューを教えられたのならば、ああ、この人はきっとと会話をしたんだな、そんな風にさえ思う。そして、その予想は大抵の場合が正しかった。
それから、ピラフを食べながら、ああ、いまは昼なのかと自覚する。蓋を閉じた圧力鍋の中もかくや、真っ暗の宇宙を操向するこの船は、眠らない戦艦であるがゆえにどこもかしこも照明を落とされることがない。太陽が昇るのを朝と言い、沈みゆくのを夜だと言うのなら、朝も夜も無いくせにシフトは夜勤だ朝番だと区分される。当然、体内時計が狂っていく中で、との挨拶は、ほんの少しだけれではあるけれど時間を意識させるものであり、誰かは『金曜日のカレー』のようだと言っていた。彼女がカレーを振舞うわけではなく、今日はカレーだよと言って回るものではあるが。
「そうなんだ」という相鎚も、「辛いのだといいな」という感想に代わり、いつしか「の好物?」という質問に代わり、彼女は口の端をにっとさせて笑った。
彼女の口数自体は多いほうではないのだが、その少なくも他愛のない雑談のテーマのほとんどは日々の食事のことで、逆にほかのことを思い出すのが難しい。かろうじて記憶に残っているのは、彼女がとあるアイドルユニットの赤い髪をした少年が好きだと言うことくらいで、ただ、ハイネはそのユニット名をかけらも覚えていないのだから、もしかしたら教えてもらう前に週に一度だけ提供されるおやつの話になったのかもしれない。
彼女がおやつのクッキーを頬ばるとき、いかにクッキー屑を取りこぼさずに口に収めるかに熱心で、チョコチップクッキーを食い散らかす青いモンスターとは理解し合えないだろうと言っていた。ハイネがふたくちで収めたクッキーを、椅子を引き、姿勢よく、ゆっくりとかじる彼女。時折、誰かの言葉に相鎚を打ち、そして、ふふっと笑みを溢す。
食事のメニューの話こそすれど、食事中に彼女自らが話題を提供することはなく、まるで食べることにだけ集中するようなその振る舞いもまた、を食いしん坊であると評するに値していた。仕方がない、喋る口も舌も、食べる口も舌も、ついでに食べ物を見つめる目も、相対する人間を見つめる目も、数に限りがある中、彼女の優先順位は言うまでもない。大抵の場合、食事の時間は数少ない憩いの時間であり、食堂はクルー同士の交流の場であるが、が真剣に咀嚼にいそしんでいるのを見つけると周囲は微笑ましく見守るばかりで、それもあって、ハイネはそもそも彼女との会話の機会が多くない気がしていた。
は食に対して強い執着があるわけではなく、美食家を気取ることもなければ、だからこそ、供給物の限られる戦艦で働くことを選べたのだろう。それに食べる量が人より極端に多いなんてことはなく、大食いが食料庫を危機に陥らせたという話も聞こえてこない。
一度、彼女がデザートをタッパーに詰めて持って帰る姿を見かけたことがあって、好物は後に取っておくのかと思いきや、満腹ゆえの行為だと言う。無重力化の照明の明るい廊下で、掌に収まるサイズの透明なプラスチック容器の中で赤いラズベリ―のゼリーが揺れて崩れる。その様子は光の反射が美しかったり、どろりとしてグロテスクであったり、そんな印象的なことは全くなかったけれど、がまるで宝石箱のように大切そうに両手で恭しく持っているだけで印象的だった。彼女がそのゼリーを食べるシーンが容易に想像できる。ベッドの端の腰を掛けて、なんてそんな惰性はしないだろう。デスクチェアに座って、姿勢を正し、揺れるゼリーを決して落とさないように、だ。それはジュエリーを扱うかの如くなのだろう。
「私にとって一番幸せな食事は、自分の好きな時に、自分の好きなメニューを、自分の好きな分だけ食べることなんだけど……」
そんな話をしたのは、ブリッジでの簡易ミーティングの後だった。は自分の管制席で捨て忘れたらしいゼリー飲料とブロッククッキーの空き箱を小さく潰していて、それは昨日、急な戦闘を前に携帯食を口に詰め込むことを余儀なくされたことの証のようなものだった。同じものをハイネも口にし、ただ彼の方がスタンバイまで時間があったので、きちんとロッカールームのごみ箱に投げ捨てた。
彼女は取り立てて苛立っている様子はなく、淡々としたその口調はどうしようもない仕方なさに整頓されたものだった。決められた時間に、決められたメニューを、栄養管理学に基づき食べる量を定められるこの環境が、彼女にとって不幸せには値しないということか、もしくは何かと天秤にかけられたか。それか、両方か。どちらでもないか。
「今日の昼はの好きなメニューが出るといいな」
小さな願いを込めてハイネが言うと、彼女はゴミを片手にピースサインを作る。
「ああ、今日は野菜のコンソメスープとチキンサンドだよ。スープにまるごとオクラが入っているらしくて、私はとってもご機嫌。まあ、携帯食のクッキーも好きだけどさ」
「分かる。俺はチョコ味が好き」
「だよね」
例えば艦の交替シフトで睡眠時間がバラバラになることがストレスだと言った人もいるし、例えば家族や恋人と長期間離れることが寂しいと言った人もいる。それらを感じた時に我慢できるかどうかはひとりひとりのパーソナリティに依り、我慢できる方が偉いとか偉くないとか、そういうものではなく、ハイネにとってたまたま、拳を握りしめずとも我慢でき、そして底のない不幸ではなかっただけだった。